デカルトは三段論法を使わない?「天才の思考法」
引用元:「デカルトの哲学原理」スピノザ著 ( 岩波文庫 ) 25p
スピノザの指摘
まず、三段論法についてスピノザは次のように説明する。
「私は疑う、私は思惟する、故に私は存在する」というこの命題は、大前提の隠された三段論法ではないということである。もし、三段論法だとすれば「故に私は存在する」という結論よりも、その前提の方が一層明瞭で、一層熟知されたものでなければならぬ。
簡単に説明すると次のようなことだ。まず「我思う故に我あり」を分解すると、以下の二つで構成されている。
- 「我思う」という前提
- 「故に我あり」という結論
さて、前提である「我思う」の中の " 我 " とは何なのか? この段階では “ 我 " が何かすら分かっていない。デカルトは、それを今から見つけようとしている最中だから。では、三段論法について考えてみよう。三段論法は以下の三つで構成される。
- 大前提 : AはBである。
- 小前提 : BはCである。
- 結論 : 故にAはCである。
大前提、小前提は共に確実な事実を元にしなければならない。仮に「我 (A) 思う(B)」の (A) が未解明であれば大前提としは使えない。また、小前提としても同じ理由で使えない。つまり、スピノザ曰く「我思う故に我あり」は三段論法ではない。
では、一体、何なのか?
三流の三段論法
デカルト自身は三段論法について次のように語っている。「精神指導の規則」デカルト著 ( 岩波文庫 ) 規則第十 65p
かの議論の方法が真理の探究に少しも貢献せぬ所以をさらに明白に知るために、注目すべきことがある。すなわち、弁証家たちが三段論法を正しく組み立てて真なる結論に至りうるには、必ず、予めさような三段論法の内容を獲得しておかなけれ ばならない。
言い変えれば、三段論法において演繹される当の真理を、すでに前以って知っておかなければならないのである。
要するに前提に確証がなければ、三段論法に意味は無いとういうことだ。また、巧みな話術で理論を展開する弁証家たちにデカルトは皮肉を述べている。
いかに巧妙な詭弁でも、ただの理性を用いる人を欺くことはほどんとなく、かえって詭弁家自身を欺くことが常であることを、我々は経験するのである。
つまり、余計な固定観念や偏見を持たない人には、通用しないということだ。
それ故、通常の弁証法は、事物の真理を探究せんと欲する者には全く無益で、ただ時折すでに知った理論を一層解り易く他人に説明するに役立ちうるのみであること、従って弁証法は、哲学から修辞学へ移すべきであること
修辞学とは、言葉の表現を研究する学問だ。政治家の効果的なスピーチとか、小説における表現とか、デカルトにとってはどうでもよい世界である。
ならば、デカルトは何を使って思考するのか?
デカルトは直観を元にして、演繹と枚挙 ( 言い変えれば、帰納 ) の二つのみを使って思考の長い鎖を作る。直観というのは、疑いの余地が全く無い事実のことだ。例えば「我思う故に我あり」といった。
ここで次の疑問が浮かぶかもしれない。「演繹と三段論法は同じでは?」確かに三段論法は、演繹の一つのパターンではある。ならば、デカルトの言う " 演繹 " とは何なのか?
「我思う故に我あり」は何論法?
スピノザは「我思う故に我あり」は三段論法ではないと否定し、その構造を以下のように説明する。
「私は思惟する。故に私は存在する」という命題は「私は思惟しつつ存在する」という命題と意義を同じくする単一命題なのである。
つまり、スピノザは「我思う故に我あり」という一文は、前提と結果に分割できない一個の事実だとした。例えば「空がある」とか「建物がある」といった単なる事実認識だと。要するに、デカルトの言う " 直観 " である。
デカルトが弁証家たちを批判した真意とは、確実な事実に基づかず、固定観念による勝手な憶測を前提にして、取り合えず三段論法を使っておけば正しそうに見えるという理由から、弁論技術に溺れた人々に対するものだ。つまり、三段論法すら正しく使えない人々である。
演繹による新たな発見
さて「我思う故に我あり」の " 我 " は、依然としてよく分からないままだ。しかし、この一文は、単なる事実を言っているだけなので、それについては正しい。それは建物を見て「建物がある」と言うのと同じだ。それがハリボテであっても、そこに何らかの建築物が建っているという事実は変わらない。
もし、全てが夢だとすれば世界の全てを疑うことができる。しかし、それが夢だったとしても「我思う故に我あり」という事実は疑えない。夢は自身が存在しないと見られないから。この時点でデカルトは、たった一つ「我思う故に我あり」という命題だけが信じられるとした。
さて、ここからどうやって他の命題を演繹から導き出したのか? スピノザは、次のように説明する。
さて、彼はこれらの条項の各々から、等しく明瞭に彼の存在を推知することができ、そしてこれらのどれをも疑わしいものの中に数えることができず、最後にまた、これらすべては同一属性の下に解され得るのであるから、この帰結として、これらすべては真であって彼の本性に属するものであるということになる。
従って彼が、「私は思惟する」と言った場合、彼はそれを以て、これらの思惟様態のすべてを、即ち、「疑うこと、理解すること、肯定すること、否定すること、欲すること、忌避すること、想像すること、感覚すること」の全てを意味したのである。
「我思う故に我あり」が単なる事実認識なら「我疑う故に我あり」でも「我理解する故に我あり」でも「我肯定する故に我あり」でもよいわけだ。このテンプレートにはめ込めるなら、それらは全て成立する。
つまり「我思う」という思考の中には、疑う、理解する、肯定する、否定する、欲する、忌避する、想像する、感覚するの全てが含まれている。結果、これら思考の状態は全て存在すると言える。
逆に「疑うけど思ってはいない」とか「理解するけど思っていはいない」と言うことはできない。「思う」ということは、そこに何かしら感情や思考が存在していることは事実だから。(「何も思わない」と言うことはできるかもしれないが )
こうしてデカルトは「我思う故に我あり」という一つの命題から、確実に事実だと言えるものだけを発見していった。