" デカルト循環 " とは何だったのか? 循環論法に陥る議論
取り敢えず、循環論法とは何か?
「私は正しい。なぜなら、私はいつも正しいから」みたいなやつだ。つまり、結論が主張の根拠に使われている自己参照的主張。
" デカルト循環 " とは?
デカルトに向けられた批判として有名なのが「デカルト循環」だ。簡単に説明しよう。まずは、デカルトの「神の存在証明」に関する主張は次の二つだ。
- 主張1 : 明確な認識があるということは、神は存在する。
- 主張2:神が存在することにより、明確な認識を得る。
デカルトは " 人間は神から明確な認識を授かった " という考えに基づいてこう言っているわけだが、一見すると、循環論法に陥っているようにも見える。そして、批判する側もそれを指摘する。デカルト哲学を解説する立場のスピノザは、批判側の言い分について以下のように述べる。
引用元:「デカルトの哲学原理」スピノザ著 ( 岩波文庫 ) p29
彼らは言う、神が存在するということはそれ自体では我々に知られるものではないのだから、我々はどんなことについても決して確実であり得ないように思われる。また、神が存在するということは、我々にはいかにしても知られ得ないであろう。不確実な前提からは、どんな確実なことも結論され得ないからである。
つまり、主張2は、存在するかどうかも分からない神を前提にしているから、結論は不確実だというわけだ。この問いかけに対し、デカルトは次のように反論している。
それだからとて我々は、それ自体によって或いは論証によって明瞭判然と理解するところの事柄についても疑い得るということにはならない。
つまり「我思う故に我あり」( 思うことが出来る私は存在している ) という明確な事実は、神がいてもいなくても変わらないと。
テーブルの上のコーヒー
ここまでの流れを例え話で説明してみよう。
テーブルの上に熱いコーヒーが注がれたカップが置いてある。多分、誰かがコーヒーを入れたのだろう。しかし、キッチンには誰もいない。どう考えても自然現象のように現れるわけがない。誰が入れたか分からないがカップがあることは明確な事実。そして、それは誰かが入れたことも確実だ。
この場合「我思う故に我あり」という認識が目の前に置かれたコーヒーカップだ。そして、それを入れた何者かが " 神 " ということになる。デカルトは熱いコーヒーの入ったカップを見つけ、何者かの存在を確信した。
それが、なぜ " 神 " と言えるのか? もしかしたら、家に侵入した空巣がコーヒーブレイクしようとしたところに、家主が戻ってきたので慌てて逃げだしたのかもしれない。もしくは、自分の記憶が飛んだか?
その何者かが " 神 " であると結論する理由は後に説明するとして、循環批判に対するデカルトの反論は「目の前にカップがあるのは事実」だ。主張は明らかに " 明確な認識 " から始まっている。だとすれば、少なくとも主張1の前提は崩れていない。
- 主張1 : 明確な認識があるということは、神は存在する。
加えてデカルトは、循環批判に対して次のように言う。
疑い得るのはただ、我々が以前真だと証明した事柄で、その記憶は蘇り得るがもはやそれを導き出した論拠は忘れてしまって注意せずにいるような事柄についてのみである。
つまり、これを " 循環してる " とか言っている批判者は、あれこれ考えるうちに最初の根拠が何だったのかを忘れてるだけだ、と。確かに複雑な仕事をしていると、後から「あれ、何でこうしたんだっけ?」と忘れることがある。" デカルト循環 " という批判は「何者かの存在すら怪しいのだから、そのコーヒーカップの存在も怪しい」と言っているようなものだ。
スピノザの反論
" デカルト循環 " に対するデカルトの反論は、主張1を守ることは出来たが、主張2についてはカバー出来ていない。つまり、循環論法ではないと完全に否定できていない。
- 主張2:神が存在することにより、明確な認識を得る。
そこでスピノザは、別の視点から反論を試みる。
例えば三角形の本性に注意した場合、我々はその三角形の和が二直角に等しいと結論せざる得ないけれども、しかし、我々が我々の本性の創造者によって欺かれているかもしれないということになれば、同じ結論はなされ得ないからである。
内角の合計が180度になるという三角形の性質は、絶対に覆らない。もし、神が三角形の性質を決めたというなら、さらに、神が我々を欺くような存在なら、三角形を測る度に合計値はコロコロと変わるだろう。ありえない。
ここで「ん?」と思った人もいるだろう。論点が、神が存在するかしないか、ではなく、神が人間を欺くかどうかという話になっている。つまり、神が存在する前提で話をしているように聞こえるかもしれない。だが、我々を欺くとしたら、その存在を " 神 " と呼ぶことができないため、結果的に神は存在しない、ということに注意してほしい。
スピノザの反論は、次のように続く。
神について真の観念を持たない人にとっては、自分を創造したものが欺瞞者であるということも、欺瞞者ではないと考えることも等しく容易なのである。あたかも三角形について何らの観念を有しない人にとって、三角形の角の和が二直角に等しいと考えることも等しくないと考えることも同じく容易であるように。
内角の合計が180度になるという三角形の性質を疑うとしたら、その人は単に数学を知らないだけだ。それと同じく、神が我々を欺く嘘つきかもしれないと疑う人がいるなら、その人は単に " 神 " が何かを知らないだけだ。
" 神 " の定義
神の明瞭判然たる観念を持たない限りは、 我々の存在を除く 他のいかなる物についても、 たとえその証明にどんなに注意したところで 、我々は絶対的確実性を有し得ない。
最初に、" 神 " がどういったものか、その定義すら分かっていなければ、そこから始まる議論は全て不確実だ。
全問題の核心は・・・神が欺瞞者であると考えることも欺瞞者でないと考えることも等しく容易であるなどということのないように我々を決定する神の観念、 むしろ神が最も誠実なものであることを我々に肯定させるように我々を強いる神の観念、そうした神の観念を我々は形成し得るということである。
問題の核心は、我々が " 正しい神 " を発見することが出来るということ。
我々がいかなるものについても確実であり得ないのは、我々が神の存在を知らない限りにおいてではなく、( なぜなら、このことについては今問題になっていないから ) 、ただ、我々が神についての明瞭判然たる神の観念を持たない限りにおいてのみである。
つまり、スピノザは、神が存在するかどうかは関係無いと。神を正しく定義できたかどうかが重要だと言う。そして、神の存在がどうであろうと、定義さえ正しければ、それだけでデカルト循環批判は退けられる。では、批判者の意見を振り返ってみよう。
- 神が存在するかどうかは、我々には分からない。
- 不確実な前提 ( 神 ) からは、確実なことは何も分からない。
これに対するスピノザの反論を言い変えるなら「不確実ならば、確実な神を定義すればいい」という話だ。これは、一見すると辻褄の合う都合の良い存在を作って " 神 " に当てはめればよい、というようにも聞こえるが、よく考えてみてほしい。
内角の合計が180度になるという三角形の性質は、人類が発見しようとしまいと関係なく最初から自然界に存在する法則だ。その法則は人類が作ったわけじゃない。すでにあったものを発見しただけだ。同じく、数学的方法で神を定義したとして、それは都合に合わせて作られたわけじゃなく、ただ、発見しただけだ。
- 主張2:神が存在することにより、明確な認識を得る。
ここで言う " 神 " は、明確に定義された神のことだ。
「神の存在証明」の構造
本当に循環していないか確かめてみよう。主張1と主張2を整理する。
- 主張1 : 明確な認識があるということは、神は存在する。
- 主張2:神が存在することにより、明確な認識を得る。
最初は、主張1の「明確な認識」から始まる。コーヒーカップの例を思い出してくれ。主張1の結論は「神は存在する」となっている。なぜ、明確な認識があると神が存在するかは、ここでは割愛する。
主張2は「明確に定義された神」が存在することにより、明確な認識が得られる。なぜ、そうなるのかは割愛する。今は循環しているかどうかが焦点だ。
よく見るとこの二つの主張は、主張1が神の存在証明までのルートを確保し、その後、主張2によって検証していることが分かる。つまり、主張1によって、一応は神らしきものを定義したが、その定義で本当に合っているのかを確かめるために、逆側から検証しているのだ。定義が正しいなら明確な認識までたどり着けるはずだと。そして、検証は成功した。
要するに、循環ではなく、往復して、道を確かめているだけだ。
そして、一旦、確実と思われたその定義で、謎とされたそれ以外の数々の現象についても検証をしてみたら、全てのピースがぴったりとはまった。デカルトの言う " 枚挙 " である。
さて、割愛した部分、なぜ、明確な認識があると神が存在することになるのか? また、神が存在すると明確な認識を得られるのか? という話は、別の記事に書くことにしよう。話が長くなり過ぎた。