比類無き注釈者スピノザによる「デカルト解体」


引用元:「デカルトの哲学原理」スピノザ著 ( 岩波文庫 )

なぜ、この本を手に取ったのか?

デカルト関連の書籍は主要なものは一通り読んではいた。大方、デカルトについては理解したつもりでいた。そして、このスピノザによるデカルト哲学の解説書によって、私はデカルトを振り返って総括するはずだった・・・


比類無き注釈者 " スピノザ "


私自身、勘違いしていたのだが、本書はデカルト自身が書いた「哲学原理」の内容全てを解説しているわけではない。そういう本じゃない。ならば、重要なエッセンスのみを抽出し、デカルト哲学について学べる要約本かと言えば、それも違う。言うなれば、デカルト哲学に対する極めて緻密な注釈本だ。


注釈とは、本来、補足説明であり " おまけ " のようなものだ。大抵、多くは本編だけを読んで注釈は読まれない。ただ、本書では「哲学原理」の注釈という形を取ながらも、デカルト哲学そのものに対してメスを入れる。本書によってスピノザは、現代のデカルト研究家から " デカルトの比類なき注釈者 " と呼ばれることになる。


デカルトの " 神 " とは?


注釈者たるスピノザの最も職人技が光るのが、デカルト哲学の肝である「神の存在証明」に関する部分だ。いわゆる、第7定理、それに追加した二つの補助定理の部分だろう。


デカルト哲学に関して、よくありがちな誤解が次のようなものだ。「神の存在証明?バーカ、神なんていねぇよ」と言う人々。一応、言っておくが、デカルトが証明しようとしたのは、その " 神 " (宗教的な) のことではない。


我々が生来持っている " 完全なる観念 " がどこから来たのか? 


デカルトが目指したものは、それが創出された最初の地点を見つけることだった。つまり、我々はどこから来たのか、我々は何者で、どこへ向かっているのか? この問いに答えようとした。それは現代においても、人類が今だ得られていない答えだ。


世に出ることがなかった幻の論文


デカルトが生きていた1600年代、旧来の宗教観を否定することはタブーとされ、当時の新しい科学、哲学は厳しい弾圧を受けていた。ガリレオ・ガリレイが「地動説」を唱えたことで宗教裁判にかけられ、相当強引な形で有罪となり、著作が禁書となったことは有名な話だ。それ以外にも幾人もの科学者や哲学者が処刑され、追放されていた。


デカルトはガリレオ裁判を目の当たりにして、彼の論文を密に入手し、当時執筆していた「世界論 ( Traité du monde et de la lumière )」と照らし合わせたが、地動説をほぼ肯定した形になっていたため、刊行することを断念したという。


デカルトの定義する " 神 " は、教会の壁画に描かれるような伝統的な神の像とは確実に違っている。神どうしが争ったとか、嫉妬して呪いをかけたとか、光と共に天から降りてきたとか、そういった次元のものではない。しかし、それらを真っ向から否定することはできないため、建前上、宗教的な意味での神を賛美するという立場を取ながらも、自身の哲学で導き出した最高完全なる存在を " 神 " と呼んだ・・・ということではなかったのか。


無論、デカルト自身が表立ってそれについて語ることはないだろうが。


解体される「神の存在証明」


さて、デカルトが行った「神の存在証明」とはどういったものだったのか? それはあの有名な一説「われ思う故に我あり」という動かしがたい事実から始まるわけだが、ここでその全てを語ることは不可能だし、出来ればデカルト自身の著書を読むことを薦める。


また、今回取り上げている本書は、スピノザによるデカルト哲学の解説書であるため、デカルト哲学を知らない人には全く理解できない内容になっている。しかし、知っている者にとっては読むべき必須の一冊だろう。


冒頭でも言ったように、私はデカルト哲学について一定の理解があると考えていたが、本書を読んでその自信は脆くも崩れ去った。


スピノザは、デカルト哲学を本書の中で一旦解体し、論点の綻びを見つけてはブラシュアップ、そして、綺麗に再構成して元の形へ戻していく。まるでアンティーク家具を補修する熟練した職人のように。天才が作った作品を天才がリペアするという緻密な技巧世界を見せられながら、私はそれにしがみついているのがやっとだった。無論、総括とか、そんな悠長なことをしている余裕は無い。


今後も問題となった第7定理、それ以外の部分でも、いくつかの忘備録を書きたいと思う。この複雑で壮大な建築物の構造を忘れてしまわないうちに。


人気の投稿