スピノザの比喩「二冊の本」が悪魔的に分かりにくい。
引用元:「デカルトの哲学原理」スピノザ著 ( 岩波文庫 ) p45
デカルト哲学を解説するため、スピノザは「二冊の本」の例を挙げている。簡単に説明しよう。
同じ書写職人によって複写された二冊の本がある。無論、その時代はコピー機がないので、手作業によって書き写されたものだ。一冊は著名人の作品、もう一冊は一般人の作品だ。ここまでの前提を整理する。
- 二冊の複写本がある。
- 一冊は著名人の作品A、一冊は一般人の作品B。
- 二冊は同一人物によって複写された。
ここでスピノザは次のように解説する。
"この言葉の意味には注意せずに、単に筆跡と文字の列だけに注意するなら、彼は二冊の本の間に違った原因を求めるように彼を強いるいかなる相違をも認めないであろう。しかし言葉や文章の意味に注意するなら、彼はそれらの間に大きな相違を見いだすであろう"
これを簡略化すると次のようになる。「内容を無視すれば、二冊はたいして変わらないように見える。しかし、内容を読めば、全く違う本であることが分かる」そして、ここで行われている比較は以下だ。
- 作品Aの複写本と作品Bの複写本との比較
当時の写本事情がどういったものかは分からないが、多分、鮮やかな表紙などなく、見た目はどの本も同じだったのかもしれない。とにかく話とは関係ないので、本の外見については無視してくれ。
そして、説明は次のように続く。今回、最も分かりにくい部分だ。
" そしてこれによって彼は一つの本の第一原因が、他の本の第一原因と甚だ異なっていたこと、しかも一の原因は他の原因に比し、実際に、その両方の本の文章の意味が、即ち映像として考察される限りの言葉が、相互に異なっているだけそれだけ一層完全であったことを結論するであろう "
ここで言われている " 第一原因 " とは原本のことだ。( " 著者 " とも読めるが、遡れば切りが無いのでここでは原本としておく )
では、 冒頭の一文、
" 彼は一つの本の第一原因が、他の本の第一原因と甚だ異なっていたこと・・ "
これを簡略化すると「彼は、二冊の複写本を読んで原本が全く違うことを結論するだろう」全く当たり前のことを言っている。
そして、彼はもう一つ結論している。後に続く部分だ。
"一の原因は他の原因に比し、実際に、その両方の本の文章の意味が、即ち映像として考察される限りの言葉が、相互に異なっているだけそれだけ一層完全であったこと "
ここで問題が発生する。
" 一の原因は他の原因に比し、 " と言っている。それはAとB二つの原本を比較してという意味か?いや、ここで比較されているのは、原本と複写本だ。つまり、この段階で話はこんな構造になっている。
- 比較1: 作品Aの原本と作品Aの複写本との比較
- 比較2: 作品Bの原本と作品Bの複写本との比較
この時点で4冊の本が登場し、二つの比較についてまとめて言及している。
スピノザは、次に " その両方の本の文章の意味が・・" と切り出し、比較1と比較2を同時に並走させる。つまり、以下の一文、
" 即ち映像として考察される限りの言葉が、相互に異なっているだけそれだけ一層完全であったこと "
これは、比較1と比較2の両方に対する言及だ。これを分かりやすく言い変えれば、「原本と比べて複写本に内容の劣化があるなら、原本は複写本よりもより完全な状態だと言える。それは比較1、比較2、どちらについても同じだ」
ここで疑問。そもそも複写本に内容の劣化がありうるのか?
一言一句書き写すなら劣化はないはずだ。もし、読んだ記憶を頼りに同じ内容を書く、もしくは、全体を複写せずに一部のみを複写するなら、ありえる。ただ、この「二冊の本」の例の後に、模写される肖像画を例に挙げて同じ説明をしているので、複写物は劣化していくという前提であるのは間違いないようだ。
では、もう一度、文の全体を振り返ってみる。前提を色分けする。
- 赤:原本Aと原本Bの比較
- 青:原本Aと複写本Aの比較。かつ、原本Bと複写本Bの比較
- 紫:赤と青、両方に対する結論。
" そしてこれによって彼は一つの本の第一原因が、他の本の第一原因と甚だ異なっていたこと、 しかも一の原因は他の原因に比し、実際に、その両方の本の文章の意味が、即ち映像として考察される限りの言葉が、相互に異なっているだけそれだけ一層完全であったこと を結論するであろう "
つまり、当たり前のことを言っているだけなのだが、私はこの一説を解読するのに二日かかってしまった。「二冊の本」がデカルト哲学の実在性を解説するための比喩であるため、抽象的なワードが多く、それが読みにくさに拍車をかけている。