「無からは何も生じない」を疑う人々への反駁

 

引用元:「デカルトの哲学原理」スピノザ著 ( 岩波文庫 ) p41


" 例えば、無からは何ものも生じないという命題を誰かが疑おうとするなら、彼は同時に、思惟する限りにおいての我々の存在をも疑い得るであろう "


簡単に言えば「無からは何も生じない」これを疑えるなら、自分の存在も疑わなければならない。と言っているわけだが、デカルトは「無から何も生じない」ということについて特に詳細な説明をしてない。


説明するまでも無い事実


「無から何かが生まれることはないのか?」という疑問に対して、デカルトは、なぜ、答えなかったか? それは、あまりに単純過ぎる事実だから。単純過ぎる事実認識。デカルト流に言うなら " 明晰判明な認識 " というやつだ。


例えば、あなたはこの一文を読んでいる。読んでないとは考えられない。だって読んでないなら、この一文があなたに認識されるはずがない。でも、たった今、あなたはこの一文を認識している。つまり、読んでいる。


これは、疑う余地のない単純過ぎる事実だ。


デカルトにとって、それは馬鹿げているほど単純な話だから、いちいち反駁するまでもない、と言える。この " 明晰判明な認識 " は、デカルトの哲学探究の基礎になる。そこから理論展開し、対象範囲を押し広げて世界を捉えようとした。


スピノザの補足


本書では、デカルトの哲学原理について解説する立場であるスピノザは「無からは何も生じない」という考えについて、この部分で若干の説明を行っている。


" もし、私が無について何事かを肯定し得るなら、即ち無が何かある事物の原因であり得ることを肯定できるなら、同時に私は同じ権利を以って、無について思惟を肯定し、そして、私は思惟する限りにおいて無である。ということも出来るからである "


この一文を私の勝手な解釈で簡略すると次のようになる。

「もし、無から何かが生じるなら、認識する私は無から生じたことになる」


そして、最後の一文「私は思惟する限りにおいて無である」は、「我思う故に我あり」(私が思惟する限りにおいて私は存在する) の " 存在 " と " 無 " を置き換えて「これほど馬鹿げた話だ」と言うブラックジョークとして反駁している。


補足の補足


スピノザのジョークに少し引っかかる部分もあるので、私なりに少し整理してみた。


もし、無から何かが生じるなら、原因と結果の法則は通用しなくなる。世界の全てで原因の無い結果だけがあちこちで頻発するだろう。飛行機が落ちても原因不明、妊娠しても原因不明、病院で誰かが死んでも原因不明、運転中、突然、目の前に通行人が現れ、その車はガソリンを入れなくてもなぜか走行する。全ては運だけで決まる世界。私たちは、多分、その世界で生きることは出来ないだろう。


原因が必要無いなら世界はもっとシンプルかもしれない。突然、あなたの心臓が止まっても、誰も気にしない。日常よくあることだから。しかし、それでは困る。つまり、都合のいいところだけ無から何かが生じ、都合の悪いところはちゃんと原因がある、としたら「無から何かが生じる」という考えは人間の都合が作り出した " 勘違い " かもしれない。


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